2008年12月2日火曜日

12/2 Today アウステルリッツの戦い(1805)

アウステルリッツの戦い - Wikipedia: "アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい, 英:Battle of Austerlitz, 仏:Bataille d'Austerlitz, 独:Schlacht von Austerlitz, 1805年12月2日)は、オーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)が、オーストリア・ロシア連合軍を破った戦いである。

ナポレオンの指揮はもはや芸術とも評された見事な勝利であり、ナポレオン戦争の中で最も輝かしいものであった。

フランス帝国皇帝ナポレオン1世、神聖ローマ帝国(公式にオーストリア帝国となるのは1806年以降)皇帝フランツ2世、ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん, 英:Battle of the Three Emperors, 独:Dreikaiserschlacht)とも呼ばれる。"


ナポレオンの得意絶頂の日。戦いが終わってナポレオンの演説:

兵士たちよ、私は諸君に満足している。

諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は、4時間足らずして、分断され四散させられた。諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。ロシアの親衛隊の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。

兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。


「兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。」といっているのが興味深い。クラウゼビッツがいうように「戦争は政治の一形態」である以上、目的が達成されれば撤兵するのが大原則。ところがこれがなかなか出来ない。ナポレオンもここで止めておけばよかったものを、戦争を繰り返し、最後は負ける。

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